東南アジアを旅して感じたこと

私は海外の国を一人で訪れることが好きです。

 

これまでヨーロッパやアジア、アメリカなど十数か国を訪れてきました。

一人旅の目的は、もちろん今まで触れたことのない異国の文化、建築物、風景に触れる、

ということもありますが、

私の場合、一番の目的は、非日常に浸かる、ということです。

 

毎日同じ時間に起きて、同じ道を歩き、同じ場所で夕方まで仕事をし、

そしてまた同じ道を歩いて、同じ場所に帰り、寝る。

これを繰り返す毎日に嫌気がさし、その当たり前の日常から離れたくなることは、

多くの方が毎日のように感じられているのではないでしょうか。

 

このうような日常から離れ、非日常に浸かる方法で最も効果的なものが、

海外一人旅だと思います。

もちろん、誰か友達とかと行くこともよいですが、

その場合はたいてい日本語から離れることができず、

何かトラブルがあったときもすぐに友達に助けを求めることができてしまいます。

同様に、海外であっても、日本人が多く居住する地域に行く場合も同様です。

こういったことからも離れて、完全なる非日常を得るには、海外一人旅は最適です

 

特に、私が好きで、おすすめするのは、東南アジアです。

私はこれまで、マレーシア、タイ、シンガポール、フィリピン、タイ、を訪れました。

フィリピンにいたっては、一時期年に数回訪れ、これまでに10回以上行っています。

 

なぜ東南アジアが好きなのか?

それは、東南アジアの日常と日本の日常のギャップが最も大きく、

その分、私の日本における日常、

つまり、人生や生きることの意味を考えさせてくれる場所だからです。

詳しい旅の内容については、今後このブログで各国ごとに紹介していく予定ですが、

今回は、大まかな概要として、

東南アジア全般で私が感じたこと、について述べたいと思います。

 

まず、東南アジアは概して、日本に比べてまだまだ国民の生活水準が低く、

貧しい暮らしを強いられている人がたくさんいます。

ですので、日本にしか住んだことのない日本人には想像できないような、

生活がそこにはあります。

 

私の初めての東南アジア一人旅はフィリピンのマニラとセブでした。

マニラはフィリピンの首都です。

首都ですので、もちろん高層ビルや大きなショッピングモールなどがあります

そのマニラで衝撃的な光景をいくつか目にしました。

ひとつは、路上生活者です。

日本にも路上生活者を目にすることはありますが、

フィリピンでは、母親と赤ん坊が路上で生活しているのを多く目にします。

しかも、日本のように繁華街や駅周辺などの限定された場所ではなく、

街の歩道のいたるところにです。

日本のように、スペースを段ボールで囲っていたりはせず、

ただ布を地面に敷いていたり、なにも敷かずに母娘が道路で抱き合って寝ていたりします。

その真横を多くの人が平然と行き交いますが、

その母親は座りながら、歩行者に声をかけ、手を差し出します。

物乞いです。

これは、マニラに限らず、フィリピンのほかの地域でもみられる風景です。

しかし、私が旅したほかの東南アジア諸国に比べ、

フィリピンはこの路上生活する人が、特に多い印象です。

それだけ貧富の差が大きいということなのでしょう。

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もうひとつは、物売りです。

マニラの大通りは信号待ちで車の流れが止まると、

多くの物売りの人たちが車の間をぬってやってきます。

売るものは水や雑誌、おもちゃやキーホルダーなどです。

また、車の窓ふきなど、サービスを売る人もいます。

日本ではまず見ない風景ですが、これも東南アジア諸国では当たり前の風景です。

 

こうした光景を初めて目にしたときは、衝撃的でした。

同時に、これまでの自分の人生が恥ずかしくなってきたことを覚えています。

私の家庭は裕福でした。欲しいものはそれなりに買ってもらえました。

もちろん、ごはんを食べさせてもらえないことや、寝る場所がないことも

一度もありませんでした。

にもかかわらず、自分の現状に満足できず、他人が持っている物を欲しがったり、

もっとおいしいもの、自分が好きなものを欲しがっていました。

なぜ自分にそういうことが可能だったのか?

それは、神様が「あなたは日本のどこどこの誰々の夫婦の子供として生まれなさい」

と私に言い、私を今の両親のもとに授けてくれたからです。

一方、マニラの路上で寝る赤ちゃんは、神様に「あなたはフィリピンのマニラの誰々の夫婦(夫婦じゃない場合も多い?)の子供として生まれなさい」と言われたのです。

そこには誰かの貢献や助けがあるわけではなく、神様が、えいや!と決めただけです。

(↑ここにはまた違った議論があるとは思いますが…)

それだけで、これほどまでに違った環境で人生を歩むことになるのです。

 

ということは、神様の気まぐれによっては、

今、私が路上で寝ながら、このブログを読んでいるあなたにお金を求め、

今日の食事にありつけるか不安に思っているかもしれないし、

マニラの灼熱の太陽のもと、一日中物売りをしているかもしれません。

 

そう考えると、今日々の生活で感じている悩みや不満というのは、

とるに足らないものなかもしれないと思えてきます。

衣食住を満足に得られている状況は、とても恵まれたものではないでしょうか。

そしてその状況に感謝するとともに、さらに人生を力強く生きていかなければならない、

という気持ちになります。

 

ここで、さらにもう一歩深く考えてみたいと思います。

では、果たして日本に暮らす私は、マニラの路上生活者よりも幸せなのか?

これは単純にイエスとは言えないと私は思っています。

東南アジアを旅して、貧困層の暮らしを目の当たりにして、さらに驚かされることは、

そういった暮らしの中でも、彼らは笑顔を絶やさない、ということです。

傍からみると、彼らはとても人生を楽しんでいるように見えます。

一方で、会社員として日本で働く私は、一日に一度も声出して笑わない日もあります。

むしろそういう日のほうが多いと思います。

毎朝、憂鬱な気分で目覚め、無表情のまま満員電車にゆられ、疲れた顔で帰宅します。

 

どちらが幸せで、人生を楽しんでいるでしょうか?

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東南アジアを旅して、私が感じたことは以上です。

みなさんのご意見をいただけると嬉しいです。

 

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